「いやな時はきちんとNoと言えること」を結構大事にして子育てをしている。というお話。
わたしは残念ながら“THE” NOといえない日本人。 心の中ではNOって思っていてもその場の雰囲気でYESって言った方がいいなと感じればNOとは言えないし、いい顔をしちゃうタイプ。そしてNO言えなくて受け入れるくせに、心の中では「ほんとはNOなのにな・・」と内心鬱々するタイプ。そんな時せこいな、ずるいなって自分自身に対して思う。その場で本心を言わずに、いい顔をして受けるなら、自分の意見もYESに変えるべき。それをせずに内心嫌だなって思いながら、でもそれを言う勇気がないから心の中だけで文句ゆうのは、卑怯だなぁ、と。
自分にないところをこどもに求めるのは違う気がしつつも、でも自身の過去の経験から、ちゃんと意思表示のできる人になってほしいと思っている。NOといえないの、良くない。
だから子育ての中では、出来る限り意見を聞いて、(どっちのコップ使いたい?とか)出来る限り尊重して(もちろん危ない時や、人に迷惑をかけるときは例外)、小さなことにも意思を持つ。自分で決める。
もちろん「こうしてほしいなぁ」と思って誘導してしまうときもあるし、スムーズに日常を回したいがために、子供の意思にイラッとする場面もあるけど。でも子育ての中で大事にしていることランキングがあるとすればかなり上位に入るんじゃあなかろうか。
娘は今年少さんで、毎日マスクをつけながら幼稚園に通っている。特に仲のいいおともだちも数人いるみたいで、最近は覚えたてのひらがなでお手紙交換したり楽しそうにしている。
園は毎日写真付きのブログを更新してくれていて、日々の様子をのぞきみすることもできる。ありがたき文明の恩恵。
でも母としてちょっとだけ気になることがある。いや噓。かなり気にしていることがある。
更新される写真の中に笑顔の我が子はいない。いつも真顔で端っこに写っている娘。楽しそうにみんなで遊んでいる写真のなかで見かけたことはないし、なぜか給食は男の子の輪の中で食べている。
別に女の子と群れてほしいわけではないし、仲の良い子の性別はなんであれおいしくみんなと給食食べてるならそれはそれで良し!と思いつつも、うちの娘は女子からはぶられているのでは・・・?(まだ年少さんなので気にしすぎなのはわかっているし、園の写真だけで創造が膨らみすぎなのもわかっているけど)でもそういう疑問がなんとなーく心にこびりついている。
そして心当たりがないこともない。先日の懇談で担任の先生に言われた、「○○ちゃんは少し気が強めですね。嫌な時ははっきり嫌って言ってます。」という言葉。先述した通り、わたしのすごく大事にしていることなので、娘ははっきりNOが言える。しかし協調性を大事にする幼稚園では、残念ながら彼女のNOといえる強さは歓迎されないらしい。遊んでいるおもちゃを「貸―しーてー」と言われれば、もう少し自分が遊んでいたいと思っていたとしても「あとでねー」というのは意地悪になるようで、自分の意に反していたとしても「いーいーよー」というのが正解のよう。
そして娘はその折り合いがうまくつけられなかったようで、最近は「貸―しーてー」と言われれば、自分の気持ちがどうであれ、「いーいーよー」ということにした、と今日の夕食の時間に教えてくれた。
仲良くお友達と遊んでほしい。毎日笑顔で走り回ってほしい。でも自分の意見を押し殺してほしくもない。
まだ上手にバランスの取れる年齢でもないし(うまれてまだ4年半しか経ってないし)、こういうを経験を積んで人は価値観を形成していくのだとは重々承知。加えて娘の人生は娘のもので、わたしの「このように育ってほしい」という気持ちがすべて思い通りになるわけ、ないない。
そのうえで、なんと娘に声をかけようかと思い悩んでいる。「NOと思ったなら周りの目を気にしないことも大切。」なのか?「まわりのお友達と仲良くね。優しくすることは大事。」なのか?
正解なんてもんはないんだろうなぁ。でも娘の人生をよりよい方向に導いてあげることができるのならば。よき言葉をかけてあげたいなと思い悩む母の夜。
娘はお気に入りのパジャマでぬくぬく夢の中。母の心中、子知らず。
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